最初の事業年という年でもあり、より市民にアピールし、城下町400年である、記念すべき年であることから、誰もが知っていて、現在使用されており、維持に努力している建物及び景観について絞り込み審査しました。(平成10年度)


旧上鉄砲町・足軽長屋・寺町通り

 五十公野から城下町の上鉄砲町までは、かつて堂々たる杉並木の街道があり、町に入るには大曲がりを経て、直角に北に曲がると旧上鉄砲町となり、それに接して足軽長屋が並んでいた。ここの住人達は足軽鉄砲組として先陣を受け持っていた。つぎに大きな寺院を集中的に配置された寺町通りとなり、いくつかの角を曲がって大手門に着く。緊急有事のことを考えた城下町づくりの特徴を現している。

   

大手門と三ノ丸周辺の面影

 新発田城三ノ丸の門が大手門である。門の前の道幅は36mもあり、中央に小砂利を敷き、両側にき高さ80cm位の土塁とその上に1mくらいのクサマキの木柵があったという。大手門は四角形をした二重門で、入城するには直角に曲がって入る構造であった。この周辺には溝口一門、山庄・仙石・君など藩重臣が居住していた。現在もこの周辺は、老松や板塀などに囲まれた家があり、往時が偲ばれる。

   

旧よろず町の土蔵造り

 旧よろず町と直角に立売町があり、あわせて両町とも言った。藩御用商人が多く、道幅も他町より一間も広く、往来も多く賑わっていた。万町には立派な土蔵があり、壁の厚さ35cmもあり、年中室温が一定し、繊維製品や荒物などの痛みや変色防止・家財の保管に適し、同時に火災予防となった。そして、水上交通の便も考え、新発田川に添って建てられたとも考えられる。

   


新発田藩政時代の名残をとどめる表門と隅櫓

 新発田城は初代藩主溝口秀勝が築城に着手し、三代宣直の治世に完成した。現在に残っている建物は、江戸時代中期に再建された表門と旧二ノ丸隅櫓の二棟のみである。表面は本丸正面の出入口で寛文八年(1668)の焼失後再建されたもの、旧二ノ丸隅櫓は昭和三十五年に修復、現在地に移築されたもの、弾丸や火矢を防ぐ外壁は漆喰で固め,腰回りは瓦張りで白黒の美しいなまこ壁である。